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2018-10-23

「楢山節考」木下恵介版






 「楢山節考」は、学生時代に観て最も衝撃を受けた映画。

二つの映像が今も脳裏に焼き付いている。
一つは、おりんが石で自分の歯を折った血だらけの口でニタと笑うシーン。
二つは、雪の中で座っているおりんが、戻ってきた息子に無言で(いねいね)と手を振るシーン。

2回映画化されているが、おれはこの底恐ろしい木下恵介版が好きだ。



 目先をちょっと変えられると、もう別物だと思って気づかない間抜けな世間だが「楢山節考」は貧しかった時代のたんなる伝説ではない。
現代社会も、覆っている薄皮一枚めくれば、すぐにこの世界は現れるし、いま現に透けて見えている。






1983年今村昌平版はカンヌ映画祭パルムドール受賞。


(過去記事増補編集再録)
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2018-10-22

ガッテン!「ボケない!脳が若返る“めい想パワー”SP」


 8月24日の記事「マインドフルネス」で、NHKスペシャル キラーストレス 第2回「ストレスから脳を守れ」の感想を書いた。

 このNHKスペシャルと前後してガッテンでも関連番組をやっていた。

 瞑想は疲れた海馬を休ませて、ストレスやボケを改善し健康に役立つ。という小さい話で終始した。

ブッダの瞑想を成就させる必須の前提となる、苦聖諦には1ミリも触れなかった。






 しかし、入口としてはこれもありなのかとおもう。

 ブッダの瞑想法が、
雰囲気だけの一過性ブームで終わるに違いなくても、たとえ名前だけでも、たとえ一度だけでも多くの耳に届くのは、この上なく善い事だ。

1回でも聞いておけば、その人はいつかは実践し、いつかは成就する可能性をもつからだ。

100億円の宝くじに当選して100歳まで長生きするよりも、この教えを1回聴くほうが得だ、とおれはおもう。




(過去記事増補編集再録)

2018-10-21

安吾と澤木老師

 坂口安吾が戦時中に書いた「日本文化私観」から引用します。

…まっとうでなければならぬ。寺があって、後に、坊主があるのではなく、坊主があって、寺があるのだ。寺がなくとも、良寛は存在する。もし、我々に仏教が必要ならば、それは坊主が必要なので、寺が必要なのではないのである。京都や奈良の古い寺がみんな焼けても、日本の伝統は微動もしない。日本の建築すら、微動もしない。必要ならば、新らたに造ればいいのである。バラックで、結構だ。


 安吾は、法隆寺や平等院よりも、小菅刑務所とドライアイス工場と軍艦に本物の美しさを認めて、その根拠を述べます。


 この三つのものが、なぜ、かくも美しいか。ここには、美しくするために加工した美しさが、一切ない。美というものの立場から附加えた一本の柱も鋼鉄もなく、美しくないという理由によって取去った一本の柱も鋼鉄もない。ただ必要なもののみが、必要な場所に置かれた。そうして、不要なる物はすべて除かれ、必要のみが要求する独自の形が出来上っているのである。それは、それ自身に似る外には、他の何物にも似ていない形である。必要によって柱は遠慮なく歪ゆがめられ、鋼鉄はデコボコに張りめぐらされ、レールは突然頭上から飛出してくる。すべては、ただ、必要ということだ。そのほかのどのような旧来の観念も、この必要のやむべからざる生成をはばむ力とは成り得なかった。そうして、ここに、何物にも似ない三つのものが出来上ったのである。

すべては、実質の問題だ。美しさのための美しさは素直でなく、結局、本当の物ではないのである。要するに、空虚なのだ。そうして、空虚なものは、その真実のものによって人を打つことは決してなく、詮ずるところ、有っても無くても構わない代物である。法隆寺も平等院も焼けてしまって一向に困らぬ。必要ならば、法隆寺をとりこわして停車場をつくるがいい。我が民族の光輝ある文化や伝統は、そのことによって決して亡びはしないのである。武蔵野の静かな落日はなくなったが累々たるバラックの屋根に夕陽が落ち、埃のために晴れた日も曇り、月夜の景観に代ってネオン・サインが光っている。ここに我々の実際の生活が魂を下している限り、これが美しくなくて、何であろうか。見給え、空には飛行機がとび、海には鋼鉄が走り、高架線を電車が轟々と駈けて行く。我々の生活が健康である限り、西洋風の安直なバラックを模倣して得々としても、我々の文化は健康だ。我々の伝統も健康だ。必要ならば公園をひっくり返して菜園にせよ。それが真に必要ならば、必ずそこにも真の美が生れる。そこに真実の生活があるからだ。そうして、真に生活する限り、猿真似を羞はじることはないのである。それが真実の生活である限り、猿真似にも、独創と同一の優越があるのである。
(以上。強調は私です)



 次に、澤木興道老師の言葉「禅に聞け」より引用します。



 金閣寺でも法隆寺の金堂でも、みんな坊主が修行するためにあるのじゃない。ただ坊主が遊んで食えるというだけの話じゃ。

 東大寺も法隆寺も、その他もろもろの寺は何のために建立されたか。――結果としてはナマクラ坊主を飼うとくために建立したにすぎぬ。してみればこそ金閣寺も延暦寺も、火をつける坊主も出てくるのは当りまえじゃ。

「トウのたった考え」というのがあるな。おとなが、よう子供に言うて聞かせておるが、たいがい「トウのたった考え」を言うておるにすぎぬ。「ええものがええ」と思い「悪いものが悪い」と思うておる。――「トウのたった考え」――葉っぱでもトウがたつと、食えるものが食えぬようになる。

(引用終)


 自分の頭がすっかり硬くなり、新しいことを一切受容できなくなると、ずうずうしくも「俺も一人前の社会人になった。精神の安定した大人になった」と思い「悪いものは悪い。いいものはいい。ダメなものはダメ」と断言して何か言った気になって威張る「大人」に、大多数の人間が劣化するのはいったいなぜか。

 社会の習慣は常時ONの定力装置で、それに常にそれ以上の力で抵抗していないと、加わる影響はどんどん大きくなる。
日常人はごく若い時以外はほとんど抵抗しないから、歳をとるにしたがってその受ける影響は蓄積され、ついにはまったく社会習慣の権化に変わってしまい、もはや自分で考え悩む努力は消え「悪いものは悪い。いいものはいい。ダメなものはダメ」とロボットのように言うだけになってしまう。


※ 定力装置 一定の力を加え続ける事のできる装置



 もう少し澤木老師の引用を続けます。

 いつもマアッタラシの目で見なければならぬ。「これは大事なもんで」――何が大事か。何も大事なものなんてありはせん。死んでゆく時にはみんなおいてゆくんじゃ。奈良や京都の文化財たら国宝たら言うても、どうせ、いつかはのうなるんじゃい。――そんなものスッポリ焼けてしもうてもいいんじゃ。

 住持とは元来、仏法に住し、仏法を任持してゆくということ、つまり仏法をうけたもってゆくことであった。ところが今の住持ときたら、寺にしがみついて食ってゆくこと――お寺に住し、自分の生活を保持してゆくというだけになってしもうた。

 金をためねばならぬような坊さんは不徳であるということは言うまでもない。

 坊主は金のないのが自慢である。良寛さんが死んだ時、金をためておったというウワサがある。それに対して、「そんなことはない。死んだ時の帳面にも、これこの通り」と言うひとがある――これは良寛さんを庇(かば)った言葉である。してみればやはり坊主に金のあるのは恥なんじゃ。

 良寛さんが亡くなって金を遺したかどうか、――やはり何も遺していなかったというのでホッとする。
 ところが娑婆の奴はそうは思わぬ。そこで出家者と娑婆の考えが正反対であることが、ようわかる。

 今の坊さんのは出家ではない。ワラ小屋から瓦小屋に家移りするだけだ。菓子屋の息子が火葬場のオッチャンに商売替えするのと同じじゃ。

 常識、常識と言うが、何を言うのかと思えば、人並みの考えのことを言っている。
もっと言えばグループ呆けの考えのことを言っておるにすぎぬ。

 ようつつしんで親だとか先祖だとか背景だとかで、値うちを持たそうとしてはならぬ。金や地位や着物で味をもたせてはならぬ。現ナマじゃ。宗教とは現ナマの自分で生ききることじゃ。


「在家の出家」とは、在家でありながら在家のグループ呆けしていない人間のことである。
(以上。強調は私です)



 上述の坂口安吾の精神は、生半可な出家坊主よりよほど本物の出家に近いと思う。
安吾の美的観点からの洞察は澤木老師の宗教的英知と等しくはないが、どこか通底しているところがある。
彼のような人間こそ、グループ呆けしない在家の出家と呼ぶにふさわしいと思う。


(過去記事再録)






































2018-10-20

幸福、心の安楽、安全、安心が欲しいくせに



 「死なないのだ」という前提で、この世界ができている。それはまっかな嘘です。嘘を事実だとすることで、何一つもよいことが起こらないのです。起きたこともないのです。ですから、人は心を清らかにしたければ、幸福になりたければ、心の安楽、安全、安心を確保したければ、苦しみを乗り越えたければ、解脱に達したければ、「確実に死ぬんだ」という事実を観察しなくてはいけない。悩みに悩んで生きている今の生き方と、まったく違う安らかな生き方が、たちまち見えてくるはずです。
(引用終)




「自分」は、死を、超えられない!

 この気づき一つだけで、解き難い人生の秘密が瞬時に解ける。
(自分は、ではなく「自分」は、です。ここ大事)



だけど、ほとんど誰もこの事実に気づこうとしない。

皆、自分が死ぬくらい知ってるつもりになることで自分を欺いてるからだ。

それで、上の端的明瞭な
短い文章の意味もさっぱり分からない。

「死なないのだ」という前提で、この世界ができている。
死んだら、あの世というそう悪くない世界があって、そこに引越して、先に往ったみんなと一緒に、いわば人生パート2が始まるものと、のんびり幻想して一日一日ぼんやり送っている。
さあいよいよ死ぬというその瞬間ときまで…




アホバッカリヤ









(過去記事増補編集再録)

2018-10-19

丸ごとの自分を心底信じきる

 過去記事に何度も書きましたが、おれには仏教とキリスト教の呼応関係を見つけて喜ぶマニアックな趣味があります。
ヒルティの言葉を(幸福論第二部「人間知について」草間平作・大和邦太郎訳)から、もう少し引用します。引用文中の強調は私です。青文字ヒルティ引用文。途中赤文字が澤木老師引用文。黒文字は私の意見です。




だれでも、その生まれつきの気質をすっかり変えてしまうことなど、出来るものではない。
むしろその特質をそのまま純化することの方が、はるかに容易である。



そのためには、まずありのままの自分を深く信じなければならない。
ブッダは「自灯明」と示し、臨済禅師は「病は不自信の処に在り」と断じて、自分を信じることの重要性を説いた。

生まれつきの気質をすっかり変えてしまうことなど、出来るものではない。

 人は誰でも、他人に知られたら恥ずかしいことを隠れて思ったりしたりしている。
大部分の道徳的たろうとする人々は、その恥ずべき自分の思いや行い全体を粗雑に圧殺しようとするが、それはできるものではない。
その結果は、信じられない自分を自他に隠す偽君子に成り下がり、一生の辛苦がむだ骨折りになる。
他人は騙せても自分は騙せない。
ダメな陰の自分を自分だけはごまかしようもなくよく知っているからだ。
それゆえ自分を信じることができない。
自分を信じない者の人生は必ず失敗に終わる。




 自分は意志が弱いからダメだと思ってるのに、なんとなくそのままにして生きてる人は、自分を信じてる状態ではない。
意志の弱い自分を丸ごと心底信じきるか、それが無理なら(普通無理なんですが)、一度やると決めたことをできるだけ実行することで、信じることができる自分に日々少しずつ近づく努力を続ける。

続けてさえいれば、それはほぼ自分を信じている状態に等しい。

自分を信じることができた時、自分の意志が弱いとか強いとか気にしない人間になっているとおもう。





 「丸ごとの自分を心底信じきる」について最高の教えは、澤木興道老師によって説かれている。
そのほんの一部を引用する。

 一切衆生は唯我独尊じゃ、自分が自分を生きるよりほかはないんじゃ。
それをどうして見失うたか。
━世間の見本が悪いからじゃ。常識といい、社会意識といい、党派根性といい、一切合切みんな見本が悪すぎる。

よく人々は位の高い人をたくさん並べて、だれがいちばん偉いだろうなどと言うが、そんなひがんだこと言わんでも良い。
私はいつも「おれだ」という。
「なんだあんな乞食袋を下げて…」と他人は言うかもしれないが、しかしおれは他人の鼻を借りて息をしておらん、おれはおれの鼻で息をしているんだ。
自己を冒涜せず、自己を極度に発揮するのが成仏と言うのだ。






 真の自信が持てなければ、自分の特質をそのまま純化せよというヒルティの有益な助言も実行できない。
大抵の人が実行困難にちがいないこの方法を、ヒルティはきわめて容易だと教えている。
論理の混乱ではなく、ここは易往而無人(往き易くして人無し)の消息に通じる話になっている。

普通無理な丸ごとの自分を心底信じきるという「神速の一手」を使えるのは、自分の生まれつきの気質を変えようとせず、その特質をそのまま純化する(できる)人に限るともいえる。
はっきり言うと、生まれつき下意識で自分を深く信じている人間だけが、「神速の一手」を使って覚醒した自信に帰着できるということだとおもう。
つまり、人間は、自分を深く信じて生まれてくる人間とそうでない人間の2種類しかいない。
そして、自分がどっちの人間かは、実際に自分の特質をそのまま純化するを本気でやってみた末に初めて分かる。



















人生にはどうでもいい事柄が実に限りなくあるものだが、そうしたことではつねに他人の意志に従うべきである。
そうすれば楽に人生が送れるし、よい友達も造作なく出来る。

(同)


悪に出会ったら、それを赦すよりも忘れる方がはるかにまさっている。
赦すのは、まだ幾らか苦々しいあと味が残り、また「下らぬ」侮辱者を超然と見下ろそうとする一種の傲慢がつきまといやすい。

(同)


よい企ては常に即座に実行しなければならない。
すぐに実行できないような企ては、決して重要なものとは認められない。

(「人生の段階」より。引用文中の強調は私です)



※ヒルティ 【Carl Hilty】
(1833-1909) スイスの法学者・哲学者。
プロテスタントの立場から倫理的著作を残す。
著「幸福論」「眠られぬ夜のために」など。
〔大辞林〕

(過去記事増補編集再録)

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sakagutitaruho

Author:sakagutitaruho
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       人間の罪とはなにか。
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本当の自分を信じ切れないことが罪だ。

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